モノ、ロボット、AI、ヒト

武田英明

 

不思議な映画である。この映画は明らかにロボットのお話である。だとするとこのタイトルは何なのであろうか。

ストーリーは単純である。子供のいない夫婦のためのロボットとして感情を持った最初のロボットDavidが作られる。Davidは最初は夫婦からかわいがられるが、やがて疎んじられ、捨てられる。しかしDavidは母を捜して放浪して…[1]。こう書くとなんの変哲のないロボットのお話になってしまう。

ロボットと人工知能に対する概念はどうやら日本とアメリカでは違うようである。AIBOASIMOをみたとき、我々は「ロボット」という概念はすぐに結びつくが「人工知能」にはそう簡単に結びつかない。アメリカではそれに比べると「人工知能」として彼ら(それら?)をみているようである。これはある種の文化的ギャップであろう。

日本人はロボットを受け入れやすいのは漫画やアニメの影響である、といった説明がなされることがあるが、もう少し根が深いと思っている。いわゆるアニミズム傾向の強い日本人はものが魂が宿ることは自然に受け入れている。我々の頭の中では石から電気製品、ロボット、ヒトは明瞭な境界線をもたずになめならかにつながっているといえる。このため日本では機械技術、電子技術の進歩の延長線上に自然にロボットがあるであろう。これに対してキリスト教の西欧社会では人間であるものとそうでないものに明確な境界線があるようである。どうやらロボットは後者、人間でないものに分類されている。

このように考えるとこの映画に含まれている葛藤が明瞭になる。Davidは感情を“インプット”することで境界線を越えてしまったロボットであり、それゆえにその存在そのものがある種の矛盾となっている。それゆえにこの映画はモノ側を強調する原作の題「Super Toys」から人間側を強調する「A.I.」に改題されたのであろう。それはこの映画のいたるところに現れている。Davidだけが人間らしく振舞い[2](というか人間そのものの振る舞いをする。Davidが“ロボットらしく”振る舞うことはほとんどない)、他のロボットはわざと“ロボットらしく”振る舞うのである。これは映画の主題のひとつであるはずが、幸か不幸か我々はこの境界線を持っていないので、この葛藤は意識されない[3]

ではDavidを人工知能とすることで解決されたのだろうか。人工知能の中にもまた相反する問題を抱えている。そもそも人工知能は発端としては人間を人間たらしめる “理性”を究明する研究分野である[4]。論理が人工知能の基本的理論と措定されるのもそれがゆえである。その実現手段としてコンピュータが重視されるもの同様である。しかし理性的人間というギリシア以来の伝統はは人々の直観と反している。感情をもつ生物としての人間という側面とうまくすり合わないのである。そこでこの映画ではあっさりと“感情をインプットする”というアドホックな関係で触れるだけである。

今の我々の人工知能の研究においてはむろんそのような関係では満足していないの周知であろう。身体性というキーワードで身体をもつことと知性の関係を真剣に考えてるわけである。これまで述べてきたような2つの葛藤をもたない日本においては大いに発展する可能性があると思っている。しかし、それは西欧的概念と対立したり、そもそも人工知能という概念を否定することかもしれない。

最後に戯言をひとつ。願わくは映画の最後のシーンで“彼ら”に涙を流してほしかった。そうすれば人工知能の未来にもっと希望が提示できたかもしれない。

 

(人工知能学会誌Vol.15, No.5, pp.712-716)



[1] 映画の後半は驚くべき展開になるのだが、それはここでいうべきことではないだろう。

[2] David役のハーレー ジョエル オズメント君のかわいすぎることも一因かな。

[3] 逆に不細工であろうとロボットが無慈悲に破壊されるシーンに嫌悪感を感じる。

[4] この学会のコミュニティの求心性が今一つなのは、このように人工知能という概念がいまだ我々がなじみない概念であるということからくるのではないだろうか。